ふと思い出す本

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過去に読んだ本は記憶に残るものもあれば残らないものもある。読んだこと自体記憶になければ、その本の存在すらも忘れてしまうこともあるのにどうして本を読みたくなるのでしょう。

感銘を受けてもまた読みたいかというとそうでもなかったり、日常を綴っただけのなんてことない内容でもまた読みたくなったり。どんな本を読みたくなるかは読むときの精神状態にも左右されがち。

 

電子書籍が一般的になる前は自室に大量に本を抱えていたけれど、あるとき起きた夜中の地震をきっかけにほとんど処分しました。ワンルーム住まいで本棚で部屋を仕切っていた当時、本棚横のベッドで寝ていた私は大変怖い思いをしたのです。蒐集した本で圧死してしまうなんて如何にも欲望に押しつぶされたみたいで象徴的ですね。いや、そんな暢気な状態ではなかったけど。

 

当時も選りすぐった本しか手元には残さないようにしていたはずだけど、どんな本を持っていたか思い出せないから、絶対に手放せないと思っていても時間と共に気持ちも薄れるものです。

本の一番重要なものは中身の本文ですが、物質と考えると蒐集癖の対象にもなります。同じ内容にも拘らず、装丁の違う本を何冊も揃えたり、初版本と改訂版の内容が違えば買い揃えたり。昔の私はシンプルライフとは程遠い人間でした。

もちろん今でも蒐集癖が無くなったわけではないので、きっかけがあればいつでも以前のようになってしまうのでしょうが、何かあった時に持ち出せるのはそれほど多くないということを考えてしまう今日この頃。

天災もそうですが、年老いた時に住む部屋はきっと然程広くないだろうなどとそれほど先でもない老後を想定してしまう。

これが大人になったということでしょうか。

介護職についている家族がいるので、なんとなくそのような事も考えてしまう様になりました。

 

 

そうは言っても嵌まると熱狂的になってしまう私。情熱が止まらなくなってしまうと判断力が鈍り、あれもこれもどれもこれもとなりやすいのも長い付き合いでよく分かっています。

 

ただ、過剰供給に疲れてくるとふと思い出すのが夏目漱石の『門』。『三四郎』『それから』に続く三部作の完結編。「『それから』のそれから」、というのを以前どこかで見かけましたがとても好きな表現です。

 

夏目漱石の文章はとても読みやすいですよね。つらつらと読み出すと止まらなくなる。初めて読んだのは高校の教科書に掲載されていた『こころ』でした。きっと同じ人も多いのではないでしょうか。掲載されていたのは「先生と遺書」の一部分でともて扇情的な場面で終わります。これは最初から全て読まなければ、と思わせるような部分の掲載でしたがネタバレな部分でもあるし、友人間では否定的な意見もありました。他の箇所であれば果たして本を買う気になったかは不明ですが、それから夏目漱石の他の小説のも興味が湧いたのは事実です。

 

で、何故過剰供給に疲れると『門』を思い出すのか。

 

主人公の宗助が、長雨が続く中で穴のあいてしまった靴を買い換えるかどうか考えるが、結局買わない。宗助の生活は裕福とは言い難いが、買えないわけでもない靴を結局買わない選択をすることに当時の私は大変感銘を受けまして。消費することが正義だった時代に逆行する考え方に触れたからでしょうか。今考えると穴が空いてるんだから流石に買い換えるべきでしょ、とは思いますが。妻の御米も新しい靴を誂えましょうと言ってるのだし。何故か「清貧」、「足るを知る」とはこういうことを言うのだな、と当時の私は憧れを抱いていたものです。

 

その後、何度か思い出して読み返してみたら記憶となんだか違うなとなったけど、未だに過剰供給に疲れて部屋が雑然としてくると、相変わらず宗助の穴のある靴を思い出しては断捨離をしようと気持ちを引き締めます。三つ子の魂百までと言いますが、何十年経っても初めて感じたことはしつこく記憶にとどまってしまう様です。

 

ちなみにこの文章を書くにあたって『門』を読み返してみました。芳一の屏風を35円で売ったあと、外套を拵えた文章はあったけど靴は結局どうしたのか斜め読みでは発見できませんでした。いやでも流石に新しい靴買ったよね。

 

夏目漱石の「門」は、青空文庫で読めます。